コラム

新聞取らない歴36年になってしまった。

ヒューマンバリュー


 
 


 

我が家に新聞がやって来た


  私は、新聞を取っていない。彼氏・彼女いない歴風に表現すると、かれこれ36年になる。理由は、36年前に遡る。この頃、人生の成功者になるためにはといった研修会によく顔を出しては真面目に勉強をしていたつもりである。
研修では、頭の中に頭脳を育てる上でネガティブな要素となるものは極力避けるべきだということを教えられた。現代風にいえば、プラスのものばかり詰め込むという内容だ。
マイナスの要素を詰め込むと潜在意識はプラス、マイナスの判断が出来ないので、マイナスを多く取り入れるとネガティブな思考回路になり、心もそのように育つというのである。
20代の多感なこともあり、すぐに「なるほど」と納得してしまった。その中で、新聞は他人の中傷等、俗に言われるネガティブな情報がてんこ盛りだったこともあり、取るのをやめてしまったわけである(現在では、元気の出る内容も多くあるのだが、こうも取らない期間が長くなると、取ろうという気にもなれないものである)。
新聞がなかったが不自由な思いをしたことがなかったのも事実である。 市長がなくなったのを聞いて、家内に「市長がなくなったらしいぞ」と教えると、「うそ!」といって、隣の奥さんに早速教えたところ「あんた、それ一週間前よ」といわれたのを記憶している。
新聞がないので、あまりテレビも見ない。子供たちには苦労を掛けたと思うが、時代がよかったせいか、見てないので一生懸命友達に聞こうとしてそれがコミュニケーションになったと今になって話してくれた。
いや、今に時代ではそんな情報も知らないの?といわれて、いじめにあうかもしれないね、とまた会話が続いた。 そんなせいか、物事を何でもよいようにとらえるようになってしまった。思考回路がそのようになってしまったのだ。
そのように育てた娘は、入学したミッション系の学校で、宗教のテストではありえない成績を残した。元来、宗教のテストで100点をとれるのは神様だけだといわれていた。なのに、100点を頂いてしまったのだ。「私は、神様だ」と冗談交じりに笑っていたのを覚えている。
災いしたこともある。私は、社会人になってから、大学に進学した。最初に短大に入学し、卒業後4年生の大学に編入した。その後、大学院で経営学の修士を取るまでになった。 この時、何でも好転的に考える思考が災いしたのである。
教授曰く、論文は批判的なところからスタートしなければいけない。といわれ、書いてあること、話していること、すべてを曲がった目で見ることが重要だという事を言われた。その中から、改善というか提案というか提起というか、その人なりのアプローチで帰結するというものであった。 卒業をするためには、このようなスタンスで始めなければならなかったため、だいぶ苦労したのを覚えている。
以来、以前に比べて物事を批判的に見るようになってしまい、たまに娘に叱られてしまう。
過日、「天罰派」と「天恵派」というのを学んだ。
「天罰派」の考えは、なにか不遇なことに遭遇した時に「天罰が下った」と考える派だそうだ。つまり、因縁果、物事にはすべてその元があり、その帰結として起きたのだから・・・、という考え方である。 「天網恢恢疎にして漏らさず」とは、正にこのような考え方から来たものかもしれない。
これに対し「天恵派」は、同様に不遇なことに遭遇した時、「神様に、試練を与えて頂いた、ありがたい」と考える思考だそうである。同時に「神様は、乗り越えられない試練は与えない」と問題に立ち向かう勇気を奮い立たせるというものだ。誠に面白い考え方である。 新聞を取らないという話からだいぶそれてしまった。話を元に戻そう。
この間、新聞は一度もとっていなかったのかというとそうでも無い、子供の中学受験に新聞の問題がよく出題されると聞き、その間は受験対策で子供新聞をとった。また、年末年始は初売りの広告が入るのでわざわざ新聞店に購入に行ったこともある。 しかし、継続して購入することはなかった。
こんな我が家に二月前から新聞が入るようになった。 理由は、震災である。
私の両親は震災に合い被災した。私は東京で被災し、翌日17時間をかけて、石巻の実家に向かった。実際に、石巻に着いたのは翌々日の早朝である。 道路はどこも寸断され、行く手は阻まれたかに見えたが、現場の情報と地域の人に助けられ、何とか、自宅迄たどり着いた。
誰もいなかったが近所の人の話で近くの小学校に避難していると聞いた。 小学校で見た90歳と85歳になる両親は、哀れなものであった。
着の身着のままで避難してきたため、夜は新聞をかけて休んだそうである。実際、避難をし、小学校の階段を3階に昇っている最中に津波が来たそうである。両親を送ってくれた車はそのまま流されどこかに行ってしまったそうだ。
当然のごとく、被災地からあまり被害のなかった私の自宅まで両親を連れて帰ってきた。
最初の数日間は電気も水道も出ない為、夜はローソクの明かりで過ごした。その中で杯を交わすと昔の話になる。昔はよく停電をした。その度にローソクを焚いたものである。85歳になる母が昔は電気料金も一律だったと話してくれた。まだまだ、インフラの整備中で、今のようなメーターをつける技術もなかったのかもしれない。
数日して電気等のインフラも復旧し、落ち着いた生活に戻り始めたころ、やはり、近隣の安否が気になる様子であった。インターネットより県警が発表するリストをダウンロードし届けるが、それは亡くなった人の情報であり、周辺情報がみえない。したがって両親自身が物事を考える方向がつかないようでもあった。テレビは、中央での情報で地方には伝わらなかった。
そんな中地元新聞が手書きで情報を出し続けたことがネットで噂になった。
しかし、年寄りはネットを見ないし、操作も不自由な様子である。携帯電話は数年前より使い方を教え、メールまでできるようになったが、インターネットはマダマダである。
毎日が夏休み、子供であればうれしい日々なのだろうが、これがいつまでも続くとなると大変なようである。興味の湧きそうなビデオを見せたり、面白そうな書籍を手渡したり、趣味の書道の道具をそろえたりしたが、やはり、被災地の事が気になるらしく、今一つだった。
そんな折に、「新聞を取ってみようか」と思いついた。早速、近所の新聞店に向かい、購読をお願いしてきた。 当然だが翌朝よりサービスで入り始めた(本来は、翌月の頭からお願いしたのだが、月内はサービスでという事だ)。「新聞とったからね」「うん」あまりうれしそうな返事でもなかったが、ひと月くらいはいいだろうと取り始めた。以来、新聞を読むのが日課になったようである。
ひと月後に更新の案内とともに販売店の人が来た、期限前の営業である。まだどうするかも決めてなかったので、後日返事をする旨を伝えて帰ってもらった。 その後、全く来なくなったので不思議に思い、母に尋ねた。継続購読をお願いしたとのこと。毎日の楽しみの一つに新聞がなったのである。
若い人はインターネットでの情報収集が主流だが、アナログ的に文字一つ一つをおいながら、また、読み返して見るなど充実感があるようだ。
当の私はとなると、常に新聞のある生活に身を置くようになったのだか、やはり、長年の習慣と前述のトラウマが手伝ってか、あまり、紙面に目をやることはない。 誰もが見るスポーツ欄という事もたまに思うのだが、情報の展開性や書き手の表現等々、つい、インターネットでの閲覧になってしまう。面白いことに、たまに実家に帰ってくる私の子供たちも新聞を読まない。習慣とは恐ろしいものである。
新聞の情報が悪いわけではないのだが、まだ、読む気にはなれない。
この頃は、電子新聞をたまにみる。という事は、新聞の情報が嫌いではなく、大きな紙面が嫌いという事なのだろうか。
いずれにしても情報はリアルに伝わる世の中なので、情報を伝達するという新聞のあり方も変わってくるのだろう思っている

 

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